トリ肉腫ウイルスのがん遺伝子V-srcに相同な遺伝子がヒトをはじめとする脊椎動物の細胞染色体上に見いだされてからちょうど20年が経過した。この間に30種類あまりのウイルスがん遺伝子と,それに相当する細胞遺伝子つまりがん原遺伝子が同定されている。また,ヒトの細胞のなかで,種々の変異で活性化されて細胞がん化能をもつようになりうるがん原遺伝子と,逆に種々の変異で不活性化されて細胞のがん化の原因となりうるがん抑制遺伝子が数多く見いだされている。それらがん原遺伝子やがん抑制遺伝子に類似しファミリーを形成しているがん関連遺伝子を含めると,ヒト染色体上には優に100種類以上の,少なくとも潜在的には発がんにかかわる遺伝子が存在することが明らかになってきた。これらがん関連遺伝子については,分子レベル,細胞レベル,そしてトランスジェニツクマウスや遺伝子欠損マウスを利用する(発生工学)個体レベルでの解析が精力的に進められ,発がん機構に関しての知見が蓄積してきた。その結果,がんは細胞内に存在する遺伝子の発現と機能の正常からの逸脱によってひき起こされる疾病であることが明らかにされた。当然のことながら,このような研究成果はがんの診断・治療に還元されるべきであり,すでに幾多の試みがなされている。
一方で,がん関連遺伝子の機能解析は,それらの産物が正常細胞の増殖・分化の調節,さらには細胞死の調節に密接にかかわり,生命現象の営みに重要な役割を果たしていることを明らかにした。すなわち好むと好まざると,がん関連遺伝子の研究は生物学から医学までを包含する生命科学の進展に多大の貢献をなしているのである。その結果,がんは生命現象のひとつとして捉えられ,がんの基礎研究が生命科学に関する研究と不可分のものであると認識されるに至っている。
このように,発がん機構の研究はある意味で円熟期に入っていると考えられる。本書では,がんの基礎研究から臨床応用までの幅広い領域において高いレベルでの研究を展開している第一線の研究者の方々に,最新の成果をまとめていただいた。そのことにより,遺伝子レベルで進められてきたがん研究が生物の理解にどのように有用であるのかを浮き彫りにしながら,現代のがん研究ががんの予防・診断・治療にいかに貢献しようとしているのかを明らかにできれば幸いである。
(「蛋白質 核酸 酵素」臨時増刊を単行本に改装発行)